1963年、東京・北区の団地で、兄の健二は妹の千代を養った。両親は震災で亡くなり、戸籍上は兄妹。

実際は、千代が神話の「天照大神の残滓」を宿す、唯一の生きた神器だった。誰も知らない。

神話は今、電車の座席に座る人々の記憶として生きている。

健二は毎朝、千代を駅まで送る。中央線の10時07分発。

ルールは一つ——千代が神の名を口にすれば、乗客の一人がその日、世界から消える。

十年前、神社の火事で彼女は言葉を失った。

代わりに、神の名は彼女の瞳に刻まれ、電車の混雑で無意識に反応する。

三月の雨の朝、千代は「あまてらす」と呟いた。隣のサラリーマンが消えた。

スーツのシワが空気の中に溶けるように、荷物も名前も残さず。

健二は彼の名札を拾い、翌日、同じ席に座る男の名前を書き換えた。

規則は二つ目——消えた者は、誰も記憶しない。家族も、会社も、写真さえも。

五月、千代は帝国大学の文学部に合格した。健二は彼女の教科書に、『古事記』の頁に線を引いた。

彼女はそれを指でなぞり、夕方の電車で「むらさきの雲」とつぶやいた。乗客が三人消えた。

新聞は「急病」と報じた。健二は千代の手を握り、涙を頬に流した。彼女は笑った。初めて。

七月の夕暮れ、千代は「かぐや姫」と言った。電車は停車せず、七人が消えた。

健二は駅のホームで、彼女の手を離した。彼女は教科書を燃やし、神社の残り火で手紙を書いた。

「兄は、神を殺すために生まれたの?」と。健二は返事をしなかった。

代わりに、彼女が乗った電車の窓に、自分を映した。

十月、千代は失踪した。健二は彼女の机に残された、手書きの時刻表を見た。

すべての列車の時刻が、彼女の呟きと一致していた。彼は中央線の終点、大崎駅に向かう。

乗客は一人もいない。ドアが閉まり、電車は動いた。

彼女は座っていた。膝に『古事記』をのせ、静かに目を閉じていた。健二は彼女の横に座った。

彼女は口を開かなかった。代わりに、彼の掌に、神の名をひとつだけ刻んだ。

電車は終点に着いた。駅の看板は「天照大神駅」に変わっていた。

彼女は消えた。健二は手のひらの文字を、指でなぞり続けた。

それは、彼女の名前だった。