朝の通勤電車で、男は目を覚ました。窓の外は明治神宮前駅のホームじゃない。

木造駅舎、和紙の広告、黒い電車の煙突から舞う煤。時計の針は1927年を指していた。

彼のスマホはガラケーに、スーツは紺の詰め襟に変わっていた。

スキルが覚醒したのは、駅員が「お待たせしました」と声をかけた瞬間。

「無駄な時間を増やす」——その効果は、時計の針を0.3秒進ませる。電車の発車を3分遅らせる。

駅の改札で10人分の待機を生む。

最初は呪いだと感じた。

彼は帝国大学の経済学部に通う女学生に声をかけた。

彼女は教科書を抱え、和服にハイカラなスカートを合わせ、電車のドアに寄りかかって笑っていた。

彼が「急いでください」と言おうとしたとき、彼女のスカートの裾が風に揺れた。

その瞬間、彼のスキルが反応した。電車の発車ベルが15秒遅れた。彼女はふと、窓の外の桜を見つめた。

関東大震災後の復興工事現場で、彼は再びスキルを無意識に発動した。

職人が「今日の午後、瓦を並べよう」と言ったとき、彼のスキルが「無駄な時間」を1時間生んだ。

その間に、工事用の木材が雨に濡れず、乾燥した。

職人たちは「今日は運がいい」と言い、瓦を一枚ずつ丁寧に並べた。

彼は気づいた。

この世界では、時間は「効率」で測られない。

「待つこと」が信頼を生む。

「遅れる」ことが、人の心をつなぐ。

軍部が「時間の節約」を叫び始めたのは、彼が銀座の喫茶店で、紅茶をゆっくり啜っていた日だった。

「怠慢は国を滅ぼす!」と新聞は書いた。

しかし、彼がスキルで10分遅らせた朝の電車のなか、女学生は隣の老人に「お茶の葉、あげます」と差し

出した。

老人は手を震わせ、手紙を渡した。

それは、戦地にいる息子への手紙だった。

彼はスキルを意図的に使った。

駅の時計を1分遅らせ、列車を1分遅らせ、街の時計を1分遅らせた。

人々は、電車の遅れに怒らず、窓の外の空を見た。

喫茶店のカーテンが風に揺れ、女学生の髪がほのかに香った。

結果、軍部の「時間管理令」は、町の主婦たちの抗議で撤回された。

理由は「時間が足りないと、人の温かさが冷めるから」。

彼は今も、毎朝、同じ電車に乗る。

スキルはまだ、無駄な時間を増やすだけ。

でも、駅のホームでは、誰かが「今日はゆっくり行きましょう」と、笑いながら声をかける。

彼は、何も言わない。

ただ、電車のドアが閉まるまで、1秒、もう1秒、ゆっくりと待つ。