帝国大学文芸科の古文書編集者は、毎朝九時、黒塗りの契約書を机の左上に置く。
誰もがその紙を無視する。誰もが「あの紙はただの紙だ」と言う。
だが、契約書の裏には、墨で覆われた三行の文字が、毎日、一つずつ薄れていく。
昭和三年春、関東大震災後の復興工事で、地下に埋もれた古文庫が発見された。
中から出たのは、明治四十年に死亡したとされる学者の日記。
その日記には「歴史を書き換えるには、記憶を捧げよ」とある。
編集者は夜な夜な、その日記をコピーし、黒塗りの契約書に貼りつける。
すると、翌朝、契約書の墨が一つ薄れる。
最初は「明治天皇の病状」が消えた。新聞は「天皇は健康だった」と書き換わった。
次に「日露戦争の勝因」が消えた。教科書は「ロシアの敗北は天候のため」となった。
人々は疑わない。誰もが「そうだったのか」と納得する。
契約のルールは、二つだけ。
一つ目:消されるのは「自分にとって最も大切な記憶」。
二つ目:消された記憶は、誰にも思い出せない。
編集者は、恋人の名前を消す日を決めていた。
彼女は、女学生として学生運動に加わり、震災の夜、避難所で風邪をこじらせた。
彼は、彼女の最後の手紙を、契約書の裏に貼り付けた。
その夜、契約書の墨が完全に消えた。
翌朝、編集者は机の上に彼女の写真を見つける。
写真の横に、自分の筆跡で「彼女は誰?」と書かれていた。
彼は、彼女の名前を思い出せなかった。
だが、彼女の着ていた水色のスカートと、団地の裏で食べた飴玉の味だけは、なぜか、まだ残っていた。
世界は、歴史を書き換えた。
彼は、愛した人を失った。
契約書は、また、黒く塗りつぶされた。
彼は、九時になると、机の左上に、新しい契約書を置く。
その紙の上に、一輪の白い薔薇が、静かに置かれている。


