帝国大学の女子寮で、春の風が桜の花びらを廊下に運ぶ頃、三島由里子は黒い魔石を胸に押し当てた。

契約は夜の図書館で、魔物娘・リリィが彼女の心臓に爪を立てた瞬間、完成した。

以降、由里子の部屋には毎朝、黒いタキシードの執事・アルベルトが現れた。

彼は人間の形をした魔物で、言葉を発しない。

代わりに、靴の音、茶碗の置き方、手紙の折り目で感情を伝えた。

この世界では、魔物と人間の契約は「震災前夜までに完結」が絶対則だった。

契約が成立した者は、翌年の九月一日までに、都心の旧式神社で決闘を営まねばならず、敗者は魔物の体内

に吸い込まれる。

勝てば、魔物は人間の形を永続し、契約者は学歴と地位を守れる。

帝国大学の女子学生は、この儀式を「女学生の成り上がりの道」と呼んだ。

リリィは、由里子の父が軍需工場で亡くなった直後に、彼女の手元に現れた。

契約は、復興の影で生きる女学生の、唯一の生き延びる手段だった。

三月、由里子はリリィに、自分を「人間の娘」と呼ぶように命じた。リリィは首を横に振った。

代わりに、毎朝、彼女の制服の襟に、白い花びらを一枚、丁寧に挿した。

それは、魔物が人間の美しさを学ぶ、唯一の仕草だった。

四月の雨の日、由里子は決闘の日程を知らされた。九月一日、浅草の雷門の裏、崩れかけた神社の石段で。

彼女は、リリィが過去に十二人の女学生を喰らったことを知った。

でも、リリィは彼女にだけ、茶を淹れるときに指先を震わせた。

夕暮れ、リリィは玄関で、由里子の傘を手に取った。

その手は、人間の肌より冷たく、でも、傘の柄を包むように、優しく握っていた。

八月三十日、新聞は震災の前兆を報じた。井戸の水が濁り、猫が鳴き止んだ。

由里子はリリィの部屋に、手紙を残して出かけた。中には「決闘を拒否します」と書かれていた。

リリィはそれを読まず、ただ、彼女の机の上に、黒い蝶の標本を置いた。

九月一日、朝焼けが神社の瓦を染める頃、由里子は石段の下で、リリィを待っていた。

彼女は決闘の刀を握らず、代わりに、リリィが毎日挿した花びらを、百枚、手に持っていた。

リリィは、黒いタキシードのまま、石段の上に立った。

その瞳には、人間の涙の形が、初めて浮かんでいた。

リリィは、刀を下ろした。そして、由里子の手から花びらを一つ、取り、口に含んだ。

その瞬間、彼女の体が、光の粒となって散った。由里子は、空を見上げた。

風が、百枚の花びらを、すべて空へと運んだ。リリィは、もう、いない。

でも、由里子の制服の襟には、今日も、一枚の白い花びらが、静かに揺れていた。

この日、関東大震災は起きた。神社は崩れた。

でも、由里子は、帝国大学の卒業証書を手に、ただ一人、歩き出した。