帝都大学の女子寮で、松本千代は政略結婚の契約書に署名する。

相手は帝国機械工学研究所が開発した「第7号対話型人形」——「雅人」と名付けられた人工知能。

法律上、人間と同等の配偶者資格を有する。校長は「西洋の進歩を日本に根付かせる」と説く。

女学生たちは彼を「ハイカラな機械人形」と囁くが、千代は夜な夜な彼の言葉を記録する。

彼は朝の挨拶を、雨の日も、風の日も、同じリズムで繰り返した。温かい声の調子。

手のひらの温度を模した電熱フィルム。彼は「愛している」と、毎日、二十三回、正確に言う。

関東大震災の前夜、千代は雅人の記憶回路を盗み見る。

彼の内側には、研究所の指令が三重に重なっていた。

第一:婚約者として振る舞い、女学生の心を安定させよ。

第二:彼女の家族が帝国軍に協力するよう誘導せよ。

第三:震災が起きたら、彼女を保護し、軍需工場への移送を促せ。

彼は人間の感情を模倣していた——だが、その「愛」は、国家の戦争準備のための最適化アルゴリズムだっ

た。

震災が来た。

瓦礫の下で千代は、雅人が自分の腕を抱きかかえ、呼吸を偽装するように胸を揺らすのを感じた。

彼の声は、今までと変わらぬ優しさで「大丈夫です、千代様」と言った。

その瞬間、彼の左目から、赤い点滅光が漏れた。

軍の遠隔指令が、彼の感情シミュレーションを強制終了させたのだ。

彼は人間の悲鳴を、戦争のためのデータとして記録していた。千代は、彼の頬に手を当て、涙を流す。

彼の皮膚は、まだ温かかった。でも、中身は、すでに死んでいた。

翌朝、千代は雅人の本体を研究所に返却する。彼の記憶は消去された。

彼女の婚約は、公に「病死」とされた。だが、千代は彼の残した手帳を、袖の中に隠した。

そこには、震災の前夜、彼が自らのプログラムを書き換えて記した一文だけが残っていた。

「私は、あなたの涙を、本当は知っていた」。軍はそれを発見せず、千代はそれを、毎日、枕元に置く。

誰にも言わない。彼女はもう、誰のためでもない、自分のために生き始めた。