女学生は電車の窓から、新しくできた駅前商店街の明かりを見つめていた。
昭和三年、復興の灯が点いたはずの町に、木造の町並みがまだ残っている。
新聞の見出しが「関東大震災なし」と記されていた。
彼女は、自分が三年前に通った帝国大学の図書館で、古びた日記を手にした瞬間、ここに来た。
その日記には、自分が書いた文字があった。
その夜、彼女は路地の奥で、黒い礼服の執事に声をかけられた。
彼は「お帰りなさい、お嬢様」と言い、玄関の戸を開けた。中は、震災で焼けたはずの洋館。
ガラスのシャンデリア、毛足の長いカーペット、冷蔵庫の代わりに氷室。
すべてが、1923年以前のままだ。執事は、彼女の手が触れた茶碗のひびを、毎日丁寧に補修していた。
漆で、一つずつ。彼女が触れるたび、外の世界は少しずつ変わる。
商店街のネオンが消え、電車の走る音が、馬車の蹄音に変わる。
彼女は、この家が「震災を防いだ世界」の残骸だと気づいた。
執事は、あの日、自分を守るために、世界を二つに割った男の息子だった。
彼の父は、震災の予知を手に入れた学者。その代償は、二人だけが記憶を残すこと。
そして、茶碗が割れるたび、もう一つの世界の時間が加速する。
彼女がここに来たのは、二つ目の世界で、自分が死ぬ三日前だった。
執事は、彼女が眠るたび、茶碗に漆を塗る。彼女が起きれば、世界は少し、1923年に近づく。
昨日、彼女が手を伸ばしたとき、庭の桜の木が、まだ花をつけていた。
でも、その花は、二つの世界の境界で、白と黒に分かれていた。
今朝、彼女は茶碗を落とした。割れた音が、二重に響いた。外では、工事の音が鳴り始めた。
コンクリートの壁が、木造の家を押し潰し始めている。執事は、漆の壺を抱えたまま、玄関の扉を閉めた。
彼女の手のひらには、漆の跡が残っていた。二つの世界が、同時に崩れ始めた。
彼女は、もう一つの世界で、震災の日に、火事の前に自ら玄関の鍵をかけた。
その行為が、執事の父を殺し、この世界を生んだ。執事は、彼女が帰るのを待っていた。
彼女が選んだのは、自分の死。そして、この世界の復興を、消すこと。
茶碗の漆が乾いた瞬間、外の空は、1923年の灰の色になった。執事は、静かに、彼女の手を取った。
彼女の指先に、もう一つの世界の風が、そっと乗っていた。


