帝国大学の図書館地下、古い書架の奥から発見された黒い羊皮紙。

その上に描かれたのは、人間の手と獣の足跡が交差する紋章。

契約は、夜明け前に署名した者に、前世の記憶を一つ返す。

代償は、その記憶が持つ「人間としての温かさ」。

三島健一は、昨夜、女学生の手帳に落書きされた署名を真似した。彼は前世、戦地で息絶えた猟師だった。

記憶が戻った瞬間、指先に毛が生え、耳が尖った。彼は獣人になった。

誰にも言えず、校舎の裏庭で月を見つめ、犬のように鼻を鳴らす。

女学生・小野みやこは、毎朝、図書館の窓辺に置かれた赤いりんごを忘れない。

健一はそれを盗み、夜に食べる。その甘さが、前世の妻が作っていた味だった。

彼は、彼女が契約の主であることに気づく。だが、彼女の瞳は、いつだって空を見上げている。

人間の温かさを、すでに失っている。

震災の前夜、大学の講堂で行われた「ハイカラ祭」。

西洋のドレスを纏った学生たちが、レコードでジャズを流す。

みやこは、その音に耳を澄ませ、涙をこぼした。健一は、彼女の手を取った。

触れた瞬間、彼女の指が、まるで枯れ葉のように脆く、冷たくなった。

翌朝、東京は瓦礫の山。図書館は崩壊し、羊皮紙は灰になった。健一の耳と爪は、元に戻っていた。

だが、前世の記憶は、二度と戻らなかった。

彼は、みやこが契約の代償として、自分の「温かさ」を全て捧げたことを知る。

彼女は、震災で亡くなった。誰もが「災害の犠牲者」と呼ぶ。しかし、彼だけが知っている。

あの夜、彼女が手帳に署名したのは、自分の命の代わりに、彼の記憶を返すためだった。

契約は、獣の身体ではなく、人間の心を喰らう。

そして、震災は、その代償を、世界が勝手に片付けた。