昭和十年、関東大震災から五年。
東京の街は復興の仮設材と西洋風レンガの混在で、空気が重く、時計の針が少しずつ逆回転し始めた。
帝国大学の女子学生が次々と「時計塔の影」に吸い込まれ、遺体は発見されず、ただ衣装だけが風に揺れる
。
政府は「電波異常」と発表したが、探偵・佐伯健一は、毎夜、同じ場所で同じ服を着た女学生の姿を見た。
彼女は名前を言わず、ただ掌に「契約書」を押した。
契約は結ばれた。佐伯は「終末の守護者」として、妻となる女学生と同居する。
法律上、妻は死亡宣告済み。法的根拠はなく、それでも市庁舎の書類は印を押した。
なぜなら、時計塔が動くたびに、東京の一部が「過去」に還元される。
電車が止まる、電灯が消える、子供の声が聞こえなくなる。
一つの時刻が消えるたび、街の記憶が一つ、消える。佐伯は妻が「消えた学生」だと気づいた。
彼女は、自分が時計塔の鍵であることを知っていた。
契約は、彼女が消える前に、誰かが彼女の存在を「記録」し続けるための手段だった。
三日目、佐伯は妻の部屋で、手帳を開く。
そこには、毎日、同じ文字で「今日も、あなたがいてくれてありがとう」と書かれていた。
彼女は、すでに五度、消えかけた。一度目は昭和五年、関東大震災の夜。二度目は帝国大学の火事。
三度目は、彼女が自殺したとされた日。四度目は、佐伯が彼女を捜し始めた日。
五度目は、契約を結んだ日。
時計塔の針が、午前四時三十七分に止まった。街の半分が、大正十三年のままになった。
電車は動かず、新聞は「天皇陛下の御親裁」の見出し。佐伯は妻を連れて、塔の下へ向かう。
彼女は、自分の体が「時間の欠片」であることを告げた。
契約は、彼女が完全に消えるまで、誰かが彼女を「妻」と呼び続けること。それだけで、塔は動かない。
塔の頂上には、彼女が書いた、千枚の手紙が積まれていた。どれも同じ言葉。
佐伯は、最後の一枚を胸に抱き、塔の鐘を鳴らした。鐘が響くと、妻の体が、風のように薄く、消えた。
街は、再び昭和十年の空気に戻った。電灯が点き、電車が動き出した。
佐伯は、妻の部屋の引き出しから、一枚の写真を見つけた。彼女と、まだ生きているはずの親友たち。
笑っている。日付は、大正十三年八月三十一日。彼女は、あの震災で死んだのではない。
彼女は、誰かを救うために、時間の欠片になって、ずっと、生き続けていた。
契約は、解けた。でも、佐伯の胸には、まだ、彼女の名前が残っていた。誰も、それを思い出せない。
でも、彼は、毎日、朝、玄関に、彼女の分の靴を並べる。
時計塔は、今も動いている。
しかし、もう、誰も、消えてはいない。


