帝大図書館の瓦礫の下、黒鉛筆一本だけが残っていた。

戦争終結直後、帝国大学は「軍事研究機関」として解体され、図書館は「非生産的空間」として放棄された

だが、その蔵書の一部——西洋の機械図解と和漢混交の呪文集——は、現実を再構成する「記述の力」を持

つとされ、軍部はそれを封印した。

書籍を書き換えると、その内容が現実化する。規則は二つ。一、書き換えは鉛筆一本のみで。

二、書き手は「権威を失った者」に限る。

令嬢は、宮廷陰謀で父を失い、皇族の名を剥奪された。

学園で「異端の思想」を広めたとして、追放された。

唯一、彼女が持ち出したのは、父が残した黒鉛筆と、怪物の図面。

それは、戦艦の装甲を包む「影の膜」の設計図だった。

軍部は、それを「非人間的防衛装置」として開発中だった。だが完成直前に、戦争が終わった。

図面は廃棄対象。彼女はそれを盗み、図書館の地下に隠した。

彼女は毎日、図書館の破れた窓から差し込む光を待つ。黒鉛筆で、図面を少しずつ書き直す。

影の膜を、花びらの形に。空気を、風鈴の音に。

書くたび、館の壁に薄い藍色の光が浮かび、埃の積もった本棚が、春の庭のように花を咲かせる。

誰も見ない。誰も来ない。でも、彼女は書く。

なぜなら、この場所だけが、彼女を「貴族」ではなく「人間」として認めたからだ。

ある朝、図書館の扉が開いた。学生が一人、立ち尽くしていた。

戦争孤児で、今も「帝国大学」の名を胸に掲げる少年。彼は、彼女の描いた花びらの影を見た。

「……これは、誰の手で?」

彼女は黙った。鉛筆を机に置く。

少年は、自分の教科書をそっと置いた。表紙に、戦前の校歌の歌詞が書かれていた。

彼女は、そのページの隅に、小さな鈴の図を描いた。

その夜、図書館の廊下に、風鈴の音が響いた。

誰もいなかった。

でも、音は、彼女の手の震えと同じリズムで、空を撫でていた。