昭和二十七年、東京近郊の新設団地で、電灯の明かりがまだ不安定だった。
編集者は『婦人画報』の校正を終え、深夜の自転車で帰宅する。
廊下の壁に貼られた「入居者名簿」の五番室、名前が消えていた。
三日前まで、そこには「佐伯 花子」とあった。
彼は知っていた。
あの女学生が、戦災孤児として彼の小学校の隣の席に座ったこと。
髪を結ったリボンは、戦時中の手作りだった。
彼女は、帝国大学の文学部に合格したが、入学直前に消えた。
新聞に載らなかった。誰も尋ねなかった。
団地の管理人から、一言だけ告げられた。
「ルールです。名前が消えたら、その人はもういない。」
彼は、その夜、五番室のドアを開けた。
鍵はかかっていなかった。
中は、昭和二十年代のまま。
机の上には、彼が書いた短編の原稿。
彼女が校正した跡、赤ペンで訂正された文言が、今も残っていた。
「恋は、未来を生きるための嘘です」
彼は、自分が編集者であることを隠した。
毎日、団地の郵便受けに、彼女の名前を書き直す。
朝、消えている。
夜、また書く。
三ヶ月後、彼は「佐伯花子」の名で、新刊の小説を出す。
表紙には、戦前の女学生制服の写真。
出版社は、その本がなぜか、団地の住人全員に配布されたと気づいた。
誰も読まない。でも、誰も捨てない。
ある夜、彼は五番室の窓に、赤いリボンが巻かれているのを見た。
それは、彼女が小学校で使っていたのと同じ色だった。
彼は、翌朝、名簿に「佐伯 花子」を書いた。
管理人が来ず、消えなかった。
団地の外では、テレビの放送が増えていた。
『お茶の間劇場』の音が、廊下を流れる。
彼は、自分の未来を、彼女のいない世界に埋めた。
誰もが、彼女が存在したことを忘れた。
でも、彼だけが、名前を書き続けた。
そして、その名前が、消えなくなった。
彼は、編集者として、彼女を生かした。
それ以上でも、それ以下でもない。
この団地では、誰かが死ぬと、次の住人が消える。
でも、誰かが書き続けると、過去が生きる。
彼は、もう校正をやめなかった。
彼女が残した赤ペンを、彼の机の上に置いた。


