昭和12年、銀座の角地に佇む時計店「クロノス」の窓ガラスは、震災後の復興材で補修され、裏側に銅線

が這う。

店内の長針は、毎日午前7時13分に逆回転し、15分だけ過去に戻る。

これは誰にも言えない規則——「時計が動くと、誰かの寿命が減る」。

メイドの小夜は、朝起きたら主人が喉を貫かれたまま、床に倒れているのを確認する。

彼の手には、昨日まで使っていた錠前が握られている。

彼女は黙って、時計の裏蓋を開け、ネジを三回左に回す。

空気の重さがひっくり返り、窓の外の電車の汽笛が逆に鳴る。新聞の見出しが消えて、また朝になる。

三日目、主人は自殺の手紙を残さず、玄関で煙草を吸いながら死んだ。小夜は時計を壊そうとした。

すると、手首の皮膚が薄くなり、指の先が透明に滲んだ。

店の奥で、昔の客が残した日記が開かれている——「時計を動かす者は、その分だけ過去の自分を失う」。

四日目、小夜は主人の遺品から、戦争動員令のコピーを発見した。彼は軍需工場の技師だった。

時計は、彼の命を救う代わりに、戦争を遅らせようとしていた。

小夜は、あの日、主人が工場へ向かう直前に、彼の手に花束を渡した。それだけ。言葉は一つもなかった。

五日目、時計は止まった。小夜の髪は白く、瞳は曇っている。

主人は、朝、いつも通り、テーブルにコーヒーを置き、外へ出た。彼女は、その背中を見送る。

手は震えていたが、時計を動かさなかった。

その夜、小夜は店の片隅で、主人の着ていたコートを抱いて眠った。翌朝、主人は来なかった。

新聞には、工場の爆発事故の記事が載っていた。彼の名前は、まだ、そこにあった。

小夜の指先は、完全に透明になった。店の時計は、もう動かない。

でも、彼女の手のひらに、花の香りが残っていた。昨日の朝、渡した、白い薔薇の匂い。

世界は、戦争を進め始めた。誰も、あのメイドが時間を戻したことを知らない。

でも、あの日、工場の技師は、少し長く、花の香りを嗅いだ。