昭和七年秋、帝国大学の女学生は電車の事故で目覚めた。

頭には「悪役令嬢・アレクサンドラ・フォン・リヒトハイム」という記憶。

処刑台の下で、手にしたのはコーヒーの香りと、陶器のカップ。

この世界では、戦争への道を進む帝都で、喫茶店だけが「味の法則」を守っていた。

一杯のコーヒーが、飲んだ者の過去を少しずつ書き換える——甘いほど、記憶は優しくなる。

苦いと、軍の宣伝文が頭に刻まれる。

店主は黙って豆を挽き、砂糖を計量した。彼女が涙をこぼすたび、砂糖を二つまみ足した。

三日後、彼女は街角で軍の応援演説を聞く。

足元に落ちた砂糖の粒が、耳に残る「忠誠」の言葉を、蜜のように包んだ。

四日目、彼女は喫茶店の窓に手を当てた。外の新聞は「戦時下の節約」を叫ぶ。

店内のラジオは軍歌を流す。だが彼女のコーヒーは、ラム酒とバニラの香りで、戦争の匂いを消していた。

五日目、彼女は店主に「この味、どうやって作るの?」と問う。返事はなかった。

代わりに、砂糖の袋に「一粒、あなたの過去を救う」と手書きで書かれていた。

六日目、警察が喫茶店を押収した。豆を焼く釜が「思想汚染」の証拠とされた。

店主は黙って、最後の一杯を注いだ。

彼女はそのコーヒーを、街の広場で、軍服の若者たちに差し出した。

一杯目は苦かった。彼らは笑った。

二杯目は甘かった。一人が涙を拭った。

三杯目は、彼女の記憶の底にあった、母の手作りのシュークリームの味だった。

誰も言わなかった。でも、三人が席を立つとき、軍帽を脱いだ。

翌朝、喫茶店は灰になっていた。

しかし、帝都の角々で、砂糖の袋が手渡され始めた。

甘いコーヒーを飲んだ者は、軍歌を口ずさまず、静かに窓の外を見ていた。

彼女はもう、悪役令嬢ではない。

ただ、甘いものを守った、一人の女学生だった。