1923年、東京・浅草の裏通り。

瓦礫の隙間から顔を覗かせる木造神社の屋根が、地震後も未だ朽ちずに残っていた。

雨音の下、ある女学生が傘を差し、足を止めると、境内の石段に座る影が動いた。彼女の名前は千鶴。

帝国大学文学部在籍。ハイカラな黒革手袋と、ネクタイ型のリボンを結んだ制服。

彼女が踏み込んだ瞬間、空気が濁った。風が止み、鳥の鳴き声が消えた。

地面に映る自分の影が、三本の足を持ち、右腕が半透明だった。千鶴は気付いた。

この神社には、もう一度戻れない場所がある——その記憶は、別の日、同じ場所で既に終わっていた。

彼女が見知らぬ少女とすれ違ったのは、昨年の秋。

あの日、千鶴は「神話の再解釈」をテーマにした研究論文を提出した。

その内容は、「天照大御神の降臨は、大地の再生という儀礼の象徴」とするもの。

当時、学内では異端視された。

しかし今、彼女の手に握るノートのページには、かつてない文字が書き込まれていた。

『あなたは、すでに死んでいる』と書かれている。

彼女が廊下を歩くと、教科書の表紙が変化した。

『昭和レトロ』の学園祭ポスターが、1923年版の関東大震災報道写真に変わった。

同じ建物なのに、柱の色が薄くなり、窓枠が鉄製に。電灯が点き、ラジオから「お茶の間の声」が流れた。

誰もいない教室で、ブラウン管テレビが勝手に起動し、『スカイマスター』の宣伝映像が流れた。

彼女が自室の鏡を見ると、自分ではなく、他の女性が映っていた。髪型は昭和初期風。

制服の襟が高く、頬に小さな傷。彼女の左手に、『追放』と刻まれた銀の指輪。

千鶴は記憶の断片をつかんだ。あの日、学園祭の夜、彼女は隠し持っていた神話資料を焼いた。

火の前に立ったのは、この身のままではなかった。

翌朝、千鶴は神社の祠に坐り、祭典の歌を口ずさむ。

それが終わると、彼女の体が青白く光り、周囲の空気が「まるっと」溶けるように膨張した。

すべての記憶が同時に存在し、過去と未来が重なり合う。

地盤が揺れ、壁が消え、瓦礫の間に新たな路が出現した。

そして、静けさが戻った。

神社の境内に、新しい石碑が立っていた。表面には、『天照大御神の再誕』と刻まれていた。

その下には、千鶴の名前が、もう一つの時代の文字で刻まれていた。

この世界は、神話が現実になる瞬間を生き延びた。

彼女が立ち上がったとき、風が舞い、雨音が聞こえなかった。

ただ、まっすぐな午後の光が、彼女の影を地面に描いた。