昭和47年秋、女子高校生の千代は、終電後の駅構内で異様な暖かさに気づく。
駅の裏手、古びた看板に「山田駄菓子」とある。母が亡くなる前、よく連れてきた店。
だが、この店は三年前に火事で焼け、跡地はコンビニになっていた。
彼女がドアを開けると、ブラウン管テレビが『プロ野球中継』を流し、床は木製、空気にはアメとチョコの
焦げた香り。
時計は1972年10月15日。彼女が母と最後にここで飴を分け合った日。
戻るたび、棚の商品が一つ消える。最初は「カントリーマアム」。二回目は「ミルキー」。
三回目は「チョコボール」。店の主人・山田老人は、何事もないように「おまえ、また来たのね」と言う。
千代は口を開かない。母の笑顔が、その手で包んでくれた飴の形を、記憶でなぞるしかない。
第四回目、彼女は「赤玉スイート」を手に取る。母が「これ、一番好きだったんだよ」と言ったあの味。
だが、手を伸ばすと、商品は存在しない。棚に空の穴だけ。その瞬間、老人の目が曇る。
彼は「もう、これで最後だ」と呟いた。
第五回目、千代は店に駆け込む。棚は空っぽ。ガラスケースに残ったのは、ただ一つの「きんつば」。
母が毎週、彼女に買ってあげた、唯一の高級品。彼女はそれを手に取る。
手に触れた瞬間、店の壁が薄く剥がれ、外は1972年の夕暮れではなく、2024年のコンビニの蛍光灯
に変わっていた。
彼女は駅の改札で立ち尽くす。ポケットには、きんつばの包み紙だけ。冷たい空気。
隣のホームで、小学生が「お母さん、これ買ってー!」と叫ぶ。声は、母の声と重なる。
千代は歩き出す。きんつばの包み紙を、駅のゴミ箱に捨てる。
その直後、彼女の手の中には、一枚のレシートが残っていた。発行日:1972年10月15日。
支払額:50円。商品名:きんつば。店名:山田駄菓子。
彼女は笑った。涙は出なかった。ただ、胸の奥で、誰かが「ありがとう」と言った気がした。
戻るたびに商品が一つ消える。
戻れるのは、母が生きている世界だけ。
最後に残ったのは、母が選んだ味。
そして、彼女が選んだのは、帰ること。


