昭和47年春、東京郊外の団地に転生した女子高生は、毎朝7時15分の都営電車で、ラジオから流れる女
の声を聞く。
「今日は卵、二個ね。豆腐、半丁。」
それは、彼女が幼少期に亡くした母の口調だった。
電車の窓に映る自分の顔は、17歳の女学生。でも心は、42歳で過労死した母の記憶に満ちていた。
転生者であることを誰にも言えない。誰も信じない。
でも、その声は、毎日、正確に、昨日の家計簿の誤りを指摘する。
ある日、ラジオの声が「明日の朝、お父さんは会社で倒れる」だと告げる。
彼女は朝食に納豆を増やし、父のネクタイを替える。
父は倒れなかった。
その夜、彼女は母の遺品から出た家計簿を手に、赤インクで「5月12日 魚屋の借金、返済済」を書き足
す。
翌日、隣の奥さんが「昨日、妙に魚屋が安かったでしょ? 誰かが全額払ってくれたって」話す。
ルールが動く。
母の声が指摘する「過ち」は、現実を書き換える。
でも、一度書き換えた記録は、二度と元に戻せない。
代償は、彼女の記憶だ。
「6月3日 母の誕生日、ケーキを焼いた」
書き足した瞬間、彼女は、母が焼いたバニラの香りを、10年ぶりに鼻に感じる。
でも、自分の小学校の担任の名前が、思い出せなくなった。
7月15日、ラジオの声は「明日、あなたが死ぬ」だと告げる。
彼女は、家計簿の最後のページに、自分の名前を書いた。
「7月16日 娘、病気で亡くなる」
そして、それを消した。
翌朝、彼女は団地の廊下で、隣の子に「おはよう」と声をかけた。
子は「あんた、今日、いつもより明るいね」と笑う。
ラジオは、もう音を立てない。
家計簿には、母の字で「ありがとう」の一言だけ、残っていた。
彼女は、母の記憶をすべて失った。
でも、朝のパン屋で、卵を二個、豆腐を半丁、買う。
カゴに手を伸ばす指が、ふと、震えていることに、気づかなかった。


