朝六時、電車の揺れで目覚めた編集者は、枕元のノートに「彼は今日も、三階の窓辺にいた」と書き残して

いる。

三十七冊の校正原稿が机に積まれ、そのうち二十三冊に赤ペンで「この描写は不自然」と註が入る。

彼女が描くのは、大正末期の女学生の日記。

だが、その文章の奥に、現実には存在しない男の声が滲んでいる。

彼女が夢見る場所は、関東大震災から三年後の帝大図書館。

壁は煤に黒ずみ、本棚の隙間から風が吹き抜け、学生たちは黒い詰め襟の制服に白いリボン。

誰も彼を見ない。誰も彼を認識しない。彼は、一九二九年、学内反戦集会の鎮圧で首を吊った学生だ。

校則で「自殺者の名を記すな」とされ、図書館の貸出記録にも、彼の名は残っていない。

夢の中では、彼は彼女に本を手渡す。『ドイツの社会主義思想』。

表紙に「大正十四年三月、帝国図書館より返却」とある。だが現実の図書館には、その本は存在しない。

戦前の蔵書は、昭和六年の「思想統制令」で「危険文書」とされ、焼却処分された。

彼が渡した本は、消された記録の断片。彼女が校正する原稿は、その本の内容を無意識に書き写していた。

夢の頻度が増す。三日おき、二日おき、毎晩。彼女は朝、目を覚ますたびに、口の中が銅の味がする。

病院で診断されたのは「過労性失語症」。言葉を発すると、喉が裂けるように痛む。

医者は「心の奥の言葉を、言葉として出せないから」と言う。

彼女は、彼の言葉を、現実の言葉にしようとしている。

ある夜、夢の中で彼は、手に持った本を床に落とす。頁がめくれ、中から写真が落ちた。

女学生三人と、彼。背後には「帝大学生会」と書かれた看板。彼の顔は、消された記録の写真と同じ。

彼女は、その写真を袖に隠して現実に持ち帰る。

だが、翌日、編集部の書庫から、昭和三年の『学生運動関係文書目録』が消えている。

彼女が見た写真は、あの目録に載っていたもの。消されたのは、彼だけではない。

彼女が見つけたすべてが、消されようとしている。

彼女は、校正原稿の最終章に「彼は、戦争の前に、ただ本を読みたいと思っていた」と書く。

その文を送った翌朝、編集部の電話が鳴る。

出版社の上層部から「この作品は、時代の歪みを美化している」として、発禁処分の通達。

原稿は回収され、彼女の名前は、表紙から削られる。

その夜、夢の中で彼は、初めて彼女の手を取った。冷たく、透き通る指先。

彼女は、その手に触れた瞬間、現実の喉に鋭い痛みが走る。血が口から溢れた。

彼は微笑み、ゆっくりと頭を振った。もう、来ない。

彼女の夢は、消された本と同じように、消えようとしていた。

彼女は、病院のベッドで、袖の中の写真を握ったまま、目を閉じる。

翌朝、看護師が彼女の手を開くと、そこには、一通の手紙が残っていた。紙は薄く、墨はにじんでいた。

文面は、ただ一文だけ。

「君が、僕を覚えてくれたなら、それでいい。」

彼女は、その日、死んだ。喉の傷は、誰にも見つからなかった。

だが、その夜、帝大図書館の裏口に、新しい本が置かれていた。表紙に、彼女の名前と、昭和四年の日付。

中には、彼の写真と、彼が読んだ本の目次だけが、丁寧に書き写されていた。

夢は、彼女が死んだ瞬間、消えた。だが、あの本は、今も、誰もが見つけられない場所で、開かれている。